私とすしがやった罵り合いの派手さに
ふだん早寝の大家さんが 気付いたら、
こんな時間に大音量のテレビをつけはじめていた
わたしはいま、殴られて1.2倍ぐらいになってしまった左半分の顔と
すしを叩いた時のかもみ合った時にできた 右腕の
腫れてアザになっているところが痛い。
カッとして電話で呼び寄せてしまった両親にも、
近所の人や大家さんにも、
こわい思いをさせた息子にも、
巻き込んでしまって申し訳ない気持ちがある。
なきじゃくったモトキも、殴られたところの痛みも、
でも本当は大したことではないんだと思う。
ただ、殴られている時、陵辱だと思った。
普段支えているつもりの人に 愛されるはずの人に
「てめえ」と呼ばれながら利き腕のぐうで顔を殴られ、
大切にされているとは程遠い行為で足蹴にされているとき
まるで価値のないみすぼらしい女みたいな気分になって
「この私がどうして」とプライドをズタズタにされたような気持ちがした
それはきっと、私の物の言い方に
夫も同じような事を思ったのかもしれないと
今ようやく思った。
相手は自分の鏡であるとは、よくいうから。
泣きはらして、一人になって、すこし経ったら
べつに大したことじゃないような考えも浮かんできた。
致命的な大けがをしたわけでもない。
ただ私への扱いが、ほんのひと時 ものすごく酷かっただけだ。
一緒に暮らす日々に比べたら、ほんの一瞬の出来事かもしれない。
部屋に、
この間すしに買ってあげたグローブが無邪気に転がっているのを見て、
嬉しそうにはめていた姿が思い浮かんだのもある。
いわゆるシングルマザーになるってことは頭をよぎった。
特にこれといったキャリアもない私は
毎日、朝早く起きて、モトキと離れて、
好きでもない仕事を始めることからやらなくてはいけない。
好きなことができるようになるまで、
沢山はたらいて、沢山のお金を貯めなくてはいけない。
きっと、シャンソンにも通えなくなるんだろうなぁ、
ママ友と子連れで遊ぶことも少なくなるだろう。
モトキと気ままに公園に行くことも。
そんなことを考え始めたら、
沢山ではないにしろ、生活がままなる程にはちゃんと稼いできてくれる
夫に対して感謝の気持ちが少なかったような気がした。
彼もきっと、大変なのだろう。
私をあんなふうに殴ってしまったことも、
きっと今頃、途方もない気持ちで後悔しているのかもしれない。
それから、自由なんてありそうでないんだな とも思った。
働かざるもの食うべからずで、
お金がないと 自由もない世の中でほんとうに生きているんだなと思った。
子どもにも、自分にも、それなりに良いものを与えたかったら。
左頬が痛い。
腕も痛い。
そして、家族というのは結びつきであって、
それは自分のせんとする行動にもしっかり、ちゃっかり結ばれていて、
自分が選んで自分になれたわけではないように、
その結ぼれも 愛だ、なんだ、じゃ片付けられない。
そういう結ぼれなのだ。
そんな意味でも人は、はなから自由なんかじゃない。
その結ぼれは、得体の知れない威力で人を動かしてしまうから
「家族」や「愛」なんて言葉で みんな実体を掴みたがる。
好き や 嫌い で人は生きていけない。
つらいことだけど。
つらいことだらけなわけでもない。
ただ本当に、自らをもって由とするなら、
そこからは自由がはじまるのだろう。
私は初めて出合った自分という得体の知れないものがよくわからなくて、
沢山の人を参考にしたし 流されてきた。
そうすると安心できるし、満たされることもあった。
そして初めて自分が母になって、同じように
沢山の人を参考にしたし 流されもした
そして初めて親や子どもや夫という家族に出合ったときも
同じようにかれらを当てはめようとしていた
私の息子が産まれてすぐ 物心もつかないうちに
無心で私を母として求めたように
私もきっと私の母を求めたのだろうに。
自分てものも、親も、自分が選んだわけではないことを思い出した。
ただ求めたのだった。
息子のことも、産むまで顔もわからなかった。
でも私は彼を求めた。
きっと、夫のことも求めたのだと思う。
選んだのとはちがう。
そう考えて、
夫を怒らせた自分もよくなかったのだと、
結ぼれを受け入れようという気持ちになったのだった。
私の場合、結婚は、あれよあれよと言う間に始まった感があったし、
なんでそうなったのかもうまく言えないし、
ただそうなったのだ。
私にとってまるで宇宙な、「結ぼれ」の存在について
気がついた今日だった。